食のインフォームドコンセントと社会生物学的リスクコミュニケーションの提案
◎調査・報告−ALIC月報 2002.4「畜産の情報」(国内編)
国立療養所犀潟病院 臨床研究部
生化学研究室長 池田正行氏
BSE問題で日本の行政はどうすべきだったのか
BSE問題では結果論だけで農林水産省を中心とする行政が非難されている。
しかしそれだけでは同じ間違いがまた繰り返されるだけだ。本論では、まず、今
後の危機管理に役立てるために行政はどうすべきだったのか、それができなかっ
たのはなぜなのかを過去にさかのぼって考えたい。
日本にも英国を含む欧州諸国から肉骨粉は輸入されていたのだから、日本でも
BSEが発生する可能性はあった。平成13年12月の調査では、農林水産省職員では
91人中18人(20%)、厚生労働省の職員では14人中5人(36%)が「国内でBSEが
発生する以前に懸念を有していた」と答えている。では、なぜその懸念を公表し、
発生に備えられなかったのか。苦い教訓を今後に生かすためには行政を責めるよ
り、このような素朴な疑問に答えることの方がはるかに重要である。しかもその
答えは簡単に見つかる。安全なJビーフ神話を自ら叩き壊すことなどできるはず
がなかったのだ。たとえ厚生労働省がBSEの国内発生の可能性を示唆しようとし
ても、農林水産省はもちろんのこと、現在BSEの被害者である畜産業、流通・小
売業業界から猛烈な圧力がかかって簡単に潰されていただろう。まして研究者が、
何の後ろ盾もなしに単独でBSE発生の可能性を指摘することなど、できようはず
がなかった。こういった事実を踏まえずただ農林水産省を非難しても何の説得力
もないし、今後の危機管理にも全く役立たない。13年4月に農林水産省がEUの調
査への協力を拒否した時もほんの一部の新聞がべた記事扱いしただけだったのだ
から、BSE発生後あれだけ大騒ぎしたメディアにも警告を怠った責任がある。私
が、8年から開設しているBSE情報提供のホームページ(http://square.
umin.ac.jp/~massie-tmd/bse.html)で、EUの調査への協力を受け入れるよう楽
観論に対して警告してもその声はどこにも届かなかった。
日本の行政当局が国内でのBSE発生の可能性を事前に認めるチャンスは少なく
とも2回あったと私は考えている。これは決して結果論ではない。第1回目は、
12年11月、ドイツ・フランスを中心に起こった第2次欧州BSEパニックの時だ。
日本と同じように対岸の火事視していたドイツで2人の閣僚が辞任する事態にな
ったのだから、ドイツより確率は低いと思われるが、日本も他人事ではないとい
う方針を打ち出せた。
第2回目のチャンスは、13年4月、EUが日本でのBSE発生の可能性を指摘した
報告を出そうとした時だ。この報告書に対し、農林水産省はEUの調査に協力し
ないと明言した。しかし、EUの調査はBSE発生の懸念を公表する絶好機だった。
日本人は外国からの圧力に弱い。EUの調査を格好の「外圧」として利用すれば、
安全なJビーフ神話を守ろうとする圧力を回避しながら、BSE発生の危険性を消費
者に対して周知できた可能性がある。その一方で、欧州での教訓と、口蹄疫清浄
化で発揮された日本の優れた防疫体制と獣医学の力でBSEコントロールは十分可
能であることを広くアピールすべきだった。しかし、実際には、農林水産省は国
粋主義に凝り固まって失敗した欧州各国の轍をそのまま踏んだのだ。
リスクバランスの崩壊と安全性強調の危険性
BSEの場合、行政が一般市民へのリスク伝達(リスクコミュニケーション)
に失敗したためにゼロリスク探求症候群やあてつけボイコットといったリスクバ
ランス感覚崩壊の嵐が巻き起こり、パニックの被害が拡大した。
このようなリスクバランス感覚崩壊によるBSEパニックを鎮めるべく、全国各
地で「牛肉は安全です」とのキャンペーンが繰り広げられている。しかし、消費
回復は思わしくない。ここで、この安全キャンペーンが果たして有効なのかを考
えてみたい。厚生労働、農林水産両大臣がテレビカメラの前でそろって牛肉を食
べて見せたのは象徴的な出来事だった。1頭だけにとどまらないことをすでに覚
悟し、なんと愚かなと冷ややかな目でテレビを見ていたのは私だけではあるまい。
案の定11月21日に2頭目が出てから、それまで徐々に回復しつつあった牛肉消費
が一段と落ち込んだ。消費者の間からは「安全だと言ったのに、またもや嘘では
ないか」とのとんでもない誤解に基づく非難の嵐が巻き起こった。安全宣言とい
う名前は、あたかももうBSEはもう出ないという誤った印象を与える。実際はこ
れからどんどんBSEを見つけますという宣言なのだから、水際作戦開始宣言と名
付けるべきだ。私は全頭検査開始以前から、ホームページやテレビ番組でそのよ
うに主張していた。しかし、私の警告はEUの調査拒否への警告と同様どこにも届
かなかった。
就任早々から「痛み」を宣言した小泉首相は、人気が落ちたとは言え、なおも
国民の過半数の支持を受けている。一方、状況が改善しないと誰の目にも明らか
な時に楽観的な見通しだけを述べれば逆狼少年として誰にも信用されなくなるば
かりか、嘘つきとして攻撃を受けるだけである。そもそもEUの調査を拒否し、B
SE国内発生の可能性から目をそらしていたからこそ、生産・流通・小売と行政
が一体となって「安全なJビーフ」キャンペーンを展開できたのだ。現在の安全
キャンペーンのどこが違うのか、もうだまされないぞというのが一般消費者の率
直な気持ちだろう。
現在の消費者の最大関心事はBSEがあと何頭、異型クロイツフェルトヤコブ病
患者が何人発生するかである。予想は困難としても、そのために専門家がいる。
おおよその数だけでも消費者に呈示すべきである。一方で日本の畜産業と関連流
通・小売業が何千億円の被害を被り、何万人の失業者が出るのかといった数字も
合わせて伝え、消費者自身にも判断を仰ぐのが現代の消費者意識にかなった本当
の情報公開だろう。これまで、行政は前もって悪い知らせを伝える仕事(リスク
コミュニケーション)の経験に乏しかった。しかし、いつまでも「民には知らし
むべからず」では行政・生産・流通・小売ずれの苦労も伝わらず、消費者の怒
りもいつまでも納まらない。
BSEパニック被害者間での仲間割れ
では、BSEパニックの被害者側は結束して対抗しているかというと全く反対だ。
行政・生産・流通・小売、消費地・生産地、あるいは国産・輸入と、さまざまに
色分けされるそれぞれの業界が仲間割れしている。自分のところは輸入牛肉を使
っているから安全だ(つまり国産は危ないから食うな)という愚にもつかない宣
伝を行なったり、雪印食品のように利己主義に基づく犯罪に走ったりして内部分
裂を繰り返している。また、一部消費者と一緒になって農林水産省叩きを繰り返
し「農水省の言うことはすべて信用できない、だから安全性は嘘だ」という論理
を助けてしまっている。ついこの間まで「安全なJビーフ」の蜜月時代だったの
に、なんという様変わりだろう。行政の誤りを指摘することは大切だが、怒りの
感情だけで行政を攻撃しても結局は自分たちの首を締めていることに気づいてい
ない。
BSEパニックの本質は感染症に対する差別と偏見
「安全だ、正しい知識だ」と叫んでも、牛肉の消費は一向に回復しない。BS
Eの背後には、異型クロイツフェルト・ヤコブ病(以下vCJDと略)がある。現段
階では差別の対象が牛肉という物に限定されているが、vCJDが国内で発生すれば
差別の対象は直ちに人間になる。典型的な差別の対象となっているHIV感染(エ
イズ)とvCJDとの共通点を考えると、BSEと差別の問題は一層よくわかる。つま
り、HIV感染とvCJDは行政スキャンダル、病気の与える不気味な印象、死に至る
不治の病といった点でとてもよく似ている。HIV感染症ではホモセクシュアルだ
けの病気だとか、握手をしてもうつるなどという、とんでもない誤解に基づく差
別が横行した。一方、まだ国内発生を見ない段階でも、すでにvCJDに対する差別
は起こっている。私のように、欧州のBSE発生国に8年以前に半年以上滞在経験
のある者はvCJDのリスク有りとして献血もできないし、臓器移植のドナーにもな
れない。今や固唾を飲んで患者発生を待っているメディアは、vCJDの第1例が出
るや否や患者とその家族の生活をずたずたに引き裂いてしまうだろう。
かつて、あるエイズ患者がテレビで「エイズ撲滅キャンペーンというのは、自
分を撲滅するキャンペーンのように思える」と語っていた。私も今、vCJDのハ
イリスクを負った者として彼の気持ちがよくわかる。今、牛肉さえ拒否している
人たちは私がvCJDを発症し、死んだ後は、私の死体を火葬場ではなくてBSE牛の
焼却場で焼き、土壌汚染を防ぐため、その灰は墓場でなくコンクリートの材料に
するように主張するのだろう。
リスクコミュニケーション技術と教育の必要性
BSEでは、悪い知らせを伝えること、すなわちリスクコミュニケーションに
失敗したために、上記のようなリスクバランス感覚の崩壊や感染症に対する差別
・偏見が、わが国の畜産業に大打撃を与えてしまった。われわれ医師は、「今日
は血圧が高いですね」から余命宣告まで、実際に出来事が起こる前にありとあら
ゆる悪い知らせを予測して患者に伝えなければならない。一方、行政はサービス
の受け手である一般市民に対して、「健康にいい食べ物」という言葉に代表され
るようないい知らせを伝えることに専念してきた。悪い知らせについては、積極
的に伝えるどころかむしろ目をそらしたり、隠そうとしてきた。しかし、われわ
れの周りには、さまざまなリスクが存在している。
今後の行政には、一般市民がバランスのとれたリスク判断ができるように、日
常生活に関わるリスクを積極的に開示していく使命がある。これは医師患者関係
におけるインフォームドコンセント(十分な説明と同意)に相当する、サービス
提供者側と受容者側の共同作業である。
BSEのような社会生物学的リスクのコミュニケーションシステムは、決して
夢物語ではない。現実に、台風情報や火山噴火情報では、見事なお手本ができあ
がっている。これらの自然災害のリスクコミュニケーションにおいては、BSE問
題では互いに非難しあっているメディア、行政、研究者が見事なチームワークを
作ってリスクを伝え、受け手の一般市民もその情報を信頼し、パニックに陥るこ
となく整然と行動している。
一般消費者にとって、牛肉よりもはるかにリスクを伴う商品の安全管理システ
ムも、日本では立派に稼動している。車がいい例だ。日本の車の品質はドイツと
並んで世界でも一流だが、市場に出た後も欠陥が見つかれば、商品の製造者から
速やかにリコールが告知される。このシステムに違反する製造者がいれば、社会
的な罰を受けることも明らかだ。このように大災害のリスクコミュニケーション
システムやリスクを伴う商品の安全管理システムを立派に稼動させている日本人
が、病気の牛の10頭や20頭に対処できないはずがない。
海外事情を知りもしないで欧米に比べてうんぬんという輩は、知ったかぶりを
言う前に、英国でどんなヘマとパニックが連続したかを学ぶべきだろう。そして
ロンドンの地下鉄に一度乗ってみるがいい。あるいはロンドンの地下鉄のでたら
めさや英国の役所のいい加減さに、在英邦人がどんなに不満を持っているか聴い
てみるがいい。また、英国では、英、仏、伊、あるいは米系の乗用車の信頼性が
如何に低く、ドイツ車と並んで日本車が如何に評価されているかは誰に聞いても
すぐわかるし、何よりも車の値段に反映されている。さらに、2分おきに運転す
る通勤電車や、コンビニ集配・時間指定の宅配便のシステムを立派に運営維持で
きるのは、この地球上で日本人だけだ。社会生物学的リスクコミュニケーション
システムの確立に一番近いところにいる国民は日本人だと私は信じている。
文 献
1 山内一也日本での狂牛病発生に万全の対策を.科学71、1403-1405.(2001).
2 難波功一、清水実嗣口蹄疫の発生と家畜衛生試験場の対応.
家畜衛試ニュース2001;103、2-7(2000).
3 池田正行“ゼロリスク探求症候群の蔓延”―BSE騒動に思う―.
現代農業3月号p,336-337(2001).
4 池田正行 狂牛病QandA.主婦の友社、(2001).
5 池田正行“100%安全”とは幻想である.
日経バイオビジネス2002年1月号、p3(2002).
6 池田正行牛海綿状脳症と異型クロイツフェルト・ヤコブ病.
保健婦雑誌、(2002)